【日本語訳】テニスの歴史を作った錦織圭、アジア人として初めてグランドスラム決勝に進出
言葉が見つかりません!すごい!
久しぶりにATP公式の記事を私なりに日本語訳してみました。
元の記事は、2014年9月6日にATP stuffによって書かれたこちらです。
Kei Nishikori Makes Tennis History, Reaches US Open Final - Tennis - ATP World Tour
記事では決勝戦の相手はフェデラーかチリッチとなっていますが、準決勝の結果、チリッチとなりました。
日本時間では、決勝戦は火曜の早朝とのことです。
テニスの歴史を作った錦織、アジア人として初めてグランドスラム決勝に進出
錦織圭は彼の歴史的な準決勝の勝利を喜びます。
日本の錦織圭は、土曜日、アジア人として初めてのグランドスラムシングルス決勝進出者となり、テニスの歴史を作りました。
全米オープンで第10シードの錦織は、トップシードで2011年チャンピオンのノバク・ジョコビッチに、6-4、1-6、7-6(4)、6-3で勝ちました。
彼は第2シードで5回優勝経験のあるロジャー・フェデラーか第14シードのマリン・チリッチと月曜の夜に決勝戦を戦います。
オンコートインタビューで錦織は「何が起っているのかわかりません」と言いました。
「少しタイトでした、特に自身初のグランドスラムのセミファイナルだったので。ただ驚くべき、素晴らしい感じです、ナンバー1プレイヤーに勝って。とても嬉しいです」
錦織はトップ10プレイヤーに対する3試合連続勝利を記録しました。
彼は火曜日の午前2時26分に世界6位のミロシュ・ラオニッチに対して4時間19分で勝っていました―全米オープンで最も遅い試合終了記録と並んで―そして水曜日には第4位のスタン・バブリンカに4時間15分で勝ちました。
「常にこのような選手たちと戦う準備ができています」と錦織は言います。
「特に今年、私は本当によくプレーしてきました。私は1度、マスターズ(1000)の決勝に行って、既にこれらのトッププレーヤーに勝ったことがありました。
ここでの初めての準決勝で、自分が少しだけナーバスになっているのを知ってましたが、自信が今日の試合の助けになると考えていました。
私は本当にうまく、本当にアグレッシブにプレーし、ボールを待ちませんでした。
対戦相手はジョコビッチだったけれども、私は私のテニスをしていました。
今日、すべてがうまくいきました」
特集記事:プロジェクト45はもはや秘密ではない(2008年11月)
特集記事:圭をあてにすること(2012年1月)
錦織アンカバード(2014年6月)
錦織はウィンブルドンからたった一つのトーナメント、ワシントンで準々決勝への努力をして、8月初旬に右足から膿疱を取り除く処置を受けた後の数週間、サイドラインに留められました。
「大会の数日前にポイント練習を始めました」と彼は言いました。
「私は自分がニューヨークに来るべきかどうか知りさえしませんでした、それで私は実際(何かを)期待してはいませんでした・・・。
私は本当に一度に一つの試合をしようとしていました。そして今ここにいます」
彼はバークレイズATPワールドツアーファイナルズにおける順位を確実にして、エミレーツATPレーストゥロンドンの第5位に上昇します。
錦織の努力を讃えたジョコビッチは、5年連続の全米オープン決勝進出、全体として6度目の決勝進出を目指していました。
「私は自分がせめてもう一歩先に行けたような感じがしましたが、今日はがっかりしています」と彼は認めました。
「そういうものです。
それがスポーツです。
私はよりよい対戦相手を祝って、前進しなければなりません。そして、今年うまくいけば去年のと近い終わり方をしようと思います」
【日本語訳】ATPツアー審判 カルロス・ベルナルデスさんインタビュー
テレビでたくさん試合を観ていると、
だんだんと選手のみならず審判も覚えてくるものですね!
2013年9月のデビスカップ、日本対コロンビアでも主審を務めていたベルナルデスさん。
いつの間にかすっかりファンになってしまい、
ベルナルデスさんが主審を務める試合を優先的に観たいくらいです。笑
そんなベルナルデスさんのインタビューを見つけました!
エジプトのテニス関係のサイトのようです。
2013年7月6日の記事です。
Carlos Bernardes Interview: A view from the top of the chair
http://rabulleil.blogspot.jp/2013/07/carlos-bernardes-interview-view-from.html
カルロス・ベルナルデス インタビュー:椅子の上からの眺め
テニス界にはファンと共鳴していて、プレーヤーと同じくらいとても有名になった数人の審判がいます。カルロス・ベルナルデスはそんな審判の一人です。伝染する微笑みをたたえた人気の高いブラジル人は20年以上もの間、コートを統治してきました。
私はコートの審判台の上からの景色がどのようであるか知るために、全仏オープンが行われているパリでベルナルデスを捕まえました。
テニスの審判になってどれくらいですか?そしてどのようにして審判になることができたのですか?
20年以上です。
我々はブラジルのサンパウロでテニスの大会がありました。フェデレーション・カップでした。私はその時、テニスの先生をしていて、新聞に「緊急に129人の審判を必要としている」と載っていました。それが大きな大会だったからです。それは16ヵ国と同じ古いフォーマットでした。私は参加して、そこにいました。そして、私はそれが好きでした。
私はもっと多くの大会で仕事をし始めました。その時に彼らに訊かれたのは、何をしようとしているかという一点。私はテニスのためにたくさん旅行していました、先生として必要でしたから。そして、審判になることを選ぶ自分を見つけました。
若かったころ、あなたはプレーしましたか?
少しだけプレーしましたが、専門的にではありません。ただいくつかの特別ではない楽しむためのトーナメントです。
今と20年前にあなたが審判としてのキャリアを始めた頃とを比べて、テニスにおける最も大きな違いは何だと思いますか?
ボールのスピードがとても上がり、プレーヤーは以前よりもフィットしています。テニスのため、ラケットやコートのため、ボールのために有効である、より多くのテクノロジーがあります。これは大いに変化しました。もし20年前の試合を見てから、今の試合を見たなら信じがたいでしょう。スピードは素晴らしいです。
もちろんプレーヤーのように適応しなければなりません。試合に来たら、もっと高速のボールを見ることでしょう。あなたは状況を前に適応します。ハードコートと芝のように。来週は芝のコートであるように、その時に順応して、あなたはクレーよりも速いことを知るでしょう。
例えばホークアイのようなテクノロジーの導入は、あなたの仕事に影響を及ぼしましたか?
ホークアイはただみんなの助けになってきています。
なぜなら、今、プレーヤーたちが異議を申し立てた時、正しいのはたった30パーセントだけです。それで、もし試合中に3つの異議を唱えたとしても、正しいのはたった1つだけだと言いましょう。プレーヤーたちや観ている人々、全員にとって良いと思っています。多分すべてのコートがそれを持つことになるでしょう。今、たった1つのトーナメントがそれをすることができます。私はそれが我々の助けになっていると思います。
前に私がお話ししたスピードとテクノロジーのために、ホークアイのような何かが本当に役に立ちます。プレーヤーは不平を言って結果を見て、それからプレーを続行できます。
今、審判たちはプレーヤーたちがチャレンジをコールするのをただ待っていて、あまり判定を覆そうとしないと若干名のプレーヤーが不平を言っているという事実についてはどうですか?今、判定を覆すことがより少ないと感じていますか?
いいえ、始めに言ったように、状況に適応します。しかし、今、みんなが通常のコートのように働きます。今起きていることは、いくらかのとてもぎりぎりのコールがあるということです。そして、みんな少しためらいます。けれども、我々は依然として同様に働きます。そして統計は物事を大きく変えなかったことを証明します。
それはただプレーヤーが少し落ち着くのに役立ちます。今、彼らが不平を言うなら、尋ねる必要がありますから。そして時々、彼らはあまりに多くを尋ねて、彼らは間違い、チャレンジを使い果たしたことを知っているので落ち着く必要があります。
タイムバイオレーションルールについてですが、何人かの審判は率直な意見を述べて、好きじゃないけれどコールしなければならないと言っていますが、あなたはどうお考えですか?
彼らは既にあったルールを使おうとして、プレーヤーさえ助けようとしています。なぜなら、今は新しいのとともに、まだセカンドサーブをプレーすることができるからです。
プレーヤーはより速いので、これは多くの助けになります。
去年の試合を観て、今年の試合を観たら、プレーヤーたちがこのルールがあることでよりいっそう速くプレーしているのがわかります。彼らは速いプレーすることに適応しました。これは良いです。私はみんなが同じページでいるつもりである年の最後まで考えます。
コートにおいてあなたに最も厳しい時間を与えるのはどのプレーヤーですか?
時々、あなたはそういうことが起こりうると思うでしょうが、それは世界で最も素敵なプレーヤーであり得るでしょう。状況によっては。
私は、問題は何かしらをすべき彼が置かれている状況であって、プレーヤーではないということを常に言っています。なぜなら、プレーヤー、彼らはその間ずっと正気でないままでいられず、コートに入って何かをし始めることができないからです。彼らは従うべきルールを持っていますが、それはむしろ状況です。
プレーヤーがこのごろ、携帯電話をコートにぶちまけたりマークを写真に撮ったりというようなことについてどうですか、あなたはそのようなことが許されるべきだと思いますか?
それは違反であって、ルールブックに載っています。それがすべてです。
問題は、彼らが時々、何か創造的なことをしたがることですが、その時には対価を支払う必要があります。しかしながら、それは楽しいです。その人は創造的で、それは面白いです。
あなたがミスをした時、試合後にプレーヤーに何か話したり謝ったりすることはありますか?
ミス、我々はいつだってそれをします。
我々はその人たちに対し正直であることに努め、「聞いてください、私はミスをしました。何ができるでしょうか。私はそれをこのように見ました、我々は事を進める必要があります」と、言います。そして、それは状況を処理する最良の方法です。その時、それについて考え続けるのは悪いことなのでできません。我々はプレーヤーと座って、そしてそれについて話をします。
試合の後、それはまた別の生活です。前進します。試合は終わっていて、何も変わりようがありません。
審判として最も忘れがたい試合は何ですか?
たくさんのたくさんの試合。
特別なのは、全米オープンの決勝でした。なぜなら、私にとって初めてのグランドスラムの決勝だったからです。ATPの主審にとって、その一部となることは名誉のようなものです。
そして、2011年のウィンブルドンは特別な試合の1つです。夢のようでしたから。テレビで初めて観たトーナメントが、ウィンブルドンでした。その時、「私はここにいる、そして、決勝をするのだ」というようでした。
仕事の上で何を最も楽しんでいますか?最も楽しくないのは?
私はプレーヤーのプレーの仕方を大いに楽しみます。彼らは素晴らしいテニスをしています。観たでしょう、ナダルとジョコビッチの準決勝。それは信じられないほど素晴らしかったです。私はテニスを楽しみ、スポーツを楽しんでいます。
多分、旅行することは最も困難でしょう。カレンダーは長く、1年間に30週、旅します。これが、悪い部分ですね。私は今年の全米オープンには出ず、いくらかの休暇を取るでしょう。
あなたはここパリで何日間かのお休みがありますが、何をする予定ですか?
観光客であろうとするでしょう。我々は少しのテニスに関する事務仕事を持っていますが、私はその場所を楽しもうとしています。それは素晴らしいです。私は少しだけ、もっと人々と街を知ろうとします。
そこでのATP大会のためにドバイへ旅するのは好きですか?
私は3回ドバイに行ったことがあります。もう一度訪れたいと望んでいます。何年も行っていないうちに街がどんなふうに違っているか見たいです。建物とホテルとすべてを見たいですね。あのクラブは美しいです。そちらでゴルフをしておかしかったです。ボールを打ったら窓を割ってしまったので。私はとても悪かったですよ。
追記あり【日本語訳】錦織圭 劇的な終幕―マッチポイントを4回凌ぐ
マイアミで行われているソニーオープンテニス4回戦での
錦織選手の対フェレール戦、ドキドキしましたね!
観戦していた皆さん、おつかれさまでした。
興奮ついでに、ATP公式から記事を訳してみました。
Kei Nishikori Saves 4 M.P. In Dramatic Finale
錦織圭 劇的な終幕―マッチポイントを4回凌ぐ
第20シードの錦織は、3時間6分で、去年の準優勝者である第4シードのダビド・フェレールに7-6(7)、2-6、7-6(9)で勝ちました。
錦織はこれでATPランキングトップ10選手に対する10勝目を上げました。
5回目のATPワールドツアーマスターズ1000ハードコートトーナメントを争う錦織は、次戦で世界1位に2回なったことのある第5シードのロジャー・フェデラーか、第9シードのリシャール・ガスケに挑みます。
錦織はウィンブルドンで行われた2012年のロンドンオリンピック以来初となるフェレールとの対戦で勝つために、32本のウィナーを打ち、13本中5本のブレークポイントを得ました。
フェレールは錦織より12本少ない40本のアンフォースト・エラーを犯しました。
フェレールは去年、マイアミの決勝でアンディ・マレーに次ぐ2位となりました。
この31歳のスペイン人は19勝6敗に今季の対戦成績を落とします。
錦織は2月に全米屋内テニス選手権(カルロビッチを破る)で、ATPワールドツアーの5つ目のタイトルを上げました。
追記(3月26日 23:00)
フェデラーvsガスケの結果が出て、元の記事が更新されたようです。
以下がその訳です。
4つのマッチポイントを凌いだ錦織 次はフェデラーと対戦
錦織圭は、ソニーオープンテニスで火曜に行われたダビド・フェレールとの試合で、勝敗を決するドラマチックなセットのタイブレークでマッチポイントを4回凌いで勝ちました。
次は、4回戦でフランス人のリシャール・ガスケに対するお決まりの勝利を楽しんだ世界5位のロジャー・フェデラーと対戦します。
第20シードの錦織は、3時間6分で、去年の準優勝者で第4シードのフェレールに7-6(7)、2-6、7-6(9)で勝ちました。
錦織はこれでATPランキングトップ10選手に対して10勝目を上げました。
「彼はフェレールと明らかにとても難しい試合をしたけれど、ロッカールームとプレーヤーレストランにいる全員が観たほど素晴らしい試合だった」と、フェデラーは言いました。
「圭は最後に良くやりきりました。
今日、私は短時間の試合をして、彼はフェレールに対して本当に過酷な試合をしたという点で、今はアドバンテージがあると疑いなく思っています。
私がそのアドバンテージを活かせるか、彼は早く回復できるか、それは明日になればわかるでしょう。
しかし、私たちはコート上の彼を見るでしょう、彼は彼の持てるすべてを差し出してくれると確信しています。彼は常にそうです」。
錦織はウィンブルドンで行われた2012年のロンドンオリンピック以来初となるフェレールとの対戦で勝つために、32本のウィナーを打ち、13本中5本のブレークポイントを得ました。
フェレールは錦織より12本少ない40本のアンフォースト・エラーを犯しました。
フェレールは去年、マイアミの決勝でアンディ・マレーに次いで2位となりました。
この31歳のスペイン人は9勝6敗に今季の対戦成績を落とします。
錦織は2月に全米屋内テニス選手権(カルロビッチを破る)で、ATPワールドツアーの5つ目のタイトルを上げました。
24歳の錦織はATPワールドツアーマスターズ1000ハードコートトーナメントにおける初めての準々決勝進出です。32歳のフェデラーは9回目です。
フェデラーは世界9位のガスケに対する14回目の対戦で決定的な勝利を収めました。
そのスイス人はオープニングセットを25分で走り抜け、第2セットをブレークで始めて4-2とリードしました。
彼はもうひとつサービスブレークをして、49分で6-1、6-2の勝利を勝ち取り、ガスケに対する対戦成績を12勝2敗に更新しました。
「コート上での物事がうまくいきました」と、フェデラーは言います。
「私はよくサーブをしました。しなければならないリターンをして攻撃的でいたので、彼にただエラーをさせようとはしませんでした。
彼にやるべきことを余儀なくやらせました。
私にとって良い試合でした」。
マイアミでの3つの試合でこのスイス人がサービスゲームで落としたのは、ガスケに対しての8ポイントを含むたった18ポイントです。
そして、たった一度だけブレークポイントに面しました。
ソニーオープンテニスでの3つ目のタイトルを争うフェデラーは、BNPパリバオープンをジョコビッチに次ぐ2位で終えたため、先の月曜に発表されたATPランキングでトップ5に返り咲きました。
フェデラーと錦織は過去2回の対戦を分け合っています。
フェデラーは2011年のバーゼルでの決勝で勝ち、錦織は去年のマドリッドのクレーの上で3セットかけて挽回しました。
【日本語訳】日本テニスの高まり
ATP公式から、記事を訳してみました。
Robert Davis氏によって書かれた2013年1月12日の記事です。
The Rise Of Japanese Tennis
http://www.atpworldtour.com/News/DEUCE-Tennis/Deuce-2013/Japanese-Tennis.aspx
誤訳等があったら、教えてください!
「日本テニスの高まり」
松岡修造と錦織圭の例を挙げ、デュース〈この記事〉ではテニスがどのように日本で人気のあるスポーツになったかを学びます。
日本のテニスのための努力が実を結びました。錦織圭は国の旗手であるかもしれませんが、彼は決して独りよがりではありません。日出づる国の3人のほかのプレーヤー―守屋宏紀、伊藤竜馬、添田豪―が、2012年の全米オープンのシングルスで世界ベスト18に入りました。多くの国がこのような数を望むでしょう。
「確実に、錦織圭の2012年オーストラリアン・オープンでの活躍は、多くの日本人選手にモチベーションと彼らにもそれができるという実感を与えました」と、ユニクロのツアーマネージャーである坂本正秀は言います。
「圭は日本人プレーヤーたちがそれをすることができると信じさせました。また、我々がロンドンオリンピックに参加したという事実を除外することはできません。オリンピックは日本の人々にとってとても重要です。オリンピックは選手たちにATPランキングを上げるためのモチベーションをより多く与えました」
添田のコーチであるダビデ・サンギネッティは自己信念の要素について坂本に同意します。
「今、彼らは彼ら自身を信じきっています」と、サンギネッティは言います。「特に、より経験のあるハードコートの大会においてです」
添田は堂々と錦織が例外的に抜きん出たことを認めます。錦織は他の日本人選手たちもATPワールドツアーで競うことができるという確信を選手たちに与えています。
「同じくらいのランキングにたくさんの選手がいて、それによりライバル関係が生まれました」と、添田は言います。「私たちは切磋琢磨することが可能でした。そして、私たちには共通の目標として錦織がいました。彼は私たちを引き上げました。私たちが世界を周る際、一緒に練習をしたり、食事に行ったり、リラックスして余暇を過ごすことができたのも、助けになりました。ツアーではそのようなことが必要です」
多くのコミュニティと地域のテニス協会がある日本には、プロのクラブテニスと、競合する成人・高校リーグが長く存続し根付いています。日本の製造業者であるダンロップとヨネックスはしっかりと確立したブランドですが、ユニクロはユニクロのグローバルアンバサダーとして世界1位のノバク・ジョコビッチと契約することで、そのスポーツがいかに国内で人気であるかを示しました。
日本のテニス熱狂者の多くが松岡修造のキャリアに集中しました。高身長で強くルックスがよい彼のドラマチックなゲームスタイルは、ネットへの戦略的アプローチというよりもバンザイ突撃に似ていました。2人の元世界1位選手、ピート・サンプラス(1991年カナダにて)と、ステファン・エドバーグ(1992年クイーンズクラブにて)に対する勝利と、元世界2位のゴラン・イワニセビッチに対しての二度の勝利(1992年クイーンズクラブ、1995年モスクワにて)により、松岡は国を鼓舞し、その過程で文化的なアイコンになりました。今日でさえ、松岡は毎年定期的に多くのテレビコマーシャルに出演しています。皮肉なことに、日本でのテニスブームを本当に生み出したのは、1995年ウィンブルドン準々決勝におけるサンプラスに対しての彼の敗北でした。
敗戦が国家を触発することがあり得るならば、東京で昨年行われた楽天ジャパンオープンチャンピオンシップスでの錦織の歴史的勝利が、今日の日本の子供たちに与えているに違いない影響を想像することさえできます。
「松岡修造は日本でテニスのために大体すべてのことをしました」と、坂本は言います。
「彼が毎日テレビに出ている主な理由は、人々にテニスを愛してもらいたい、テニスというスポーツを知ってほしいと望んでいるからです。修造は日本でとても有名ですが、彼はいまだに人々に『私は松岡修造です。テニスプレーヤーです』と言います。私は日本のテニスを彼以上に気にかけている人を知りません。修造は私のヒーローであり、すべての日本のテニスプレーヤーにとってのヒーローなのです」
松岡の引退後、相対的に行き詰った期間がありました―才能ある鈴木貴男を除いて。ATPワールドツアーのベテランであるクラウディオ・ピストレジに指導を受け、鈴木はしばしば母国のために彼の最も良いテニスを守りました。
特に、2006年に戻って、東京での準々決勝で彼が最終的に4-6、7-5、7-6(3)で負ける前に世界1位のロジャー・フェデラーをスリル満点の3つのセットに連れて行ったときのひとつの試合を含めて、偉大さのしるしがありました。
「松岡と練習することが可能でした。それはプロのプレーヤーの打球がどんなタイプであるか、プロのテニスプレーヤーになるのに何を要するかについて私が貴重な経験を得ることを許しました」と、鈴木は思い起こします。「今、圭のランキングが上がって、ツアーにいる他の日本人選手は、自分たちも同じように、また、よりよくできると信じることが可能です」
松岡は、現在マリン・チリッチのゲームを監督しているボブ・ブレットに指導を受けました。松岡が引退したずっと後に、二人は修造チャレンジという、毎年最も良い若いジュニアたちを集めた能力自己認識キャンプを発展させました。坂本が言うことには、「みんなが修造チャレンジを体験します。修造チャレンジは日本人男子テニスの成功において巨大な役割を担っています。松岡とブレットは首尾一貫して厳しく、若い子供たちに容易な方法はないということを教えます。彼らはテニスの基本と、どんな人間になるかという最も重要なことを教えます」
典型的な様式で、ブレットはインタビューを受けることを丁寧に断りました。その代わりに日本人の指導者たち、そしてピストレジ、サンギネッティ、Cesar Castaneda、Braen Aneirosといった日本人選手とツアーを周っている一握りの外国人の指導者たちへの誇りを捧げることを好みました。しかし、日本のテニスにブレットの指紋がついていることは間違いありません。よいテクニック、知的なスケジューリングと、『一生懸命に、しかし賢く働く』態度を含めてです。
松岡と鈴木は日本人の子供たちに、彼らがプロテニスでキャリアを築くことができたということを示します。しかしながら、成功するために、日本はいくらかのエリアを取り上げること、すなわち、国際的なサーキットの素晴らしい知られざるもののために国内ツアーを離れることを必要としました。
「添田豪は日本のテニスの上昇において鍵となる成功要因でした」と坂本は主張します。
「豪は2年前にフューチャーズで、2011年はたいていのチャレンジャーズでプレーしました。彼はただひとりの日本人選手に過ぎませんでした。圭は特別な才能がありましたが、選手たちは『豪ができるなら、私にもできる』と考えました。すべての選手たちがそのように考えました」
添田は認めます。「私がチャレンジャーズに限らず、ATPワールドツアーでプレーすることで彼らに希望を与えられると信じています。私は多くの若手選手たちが自信を得るために、壁を壊すことができました」
「日本の外で訓練する圭は別として、国内で練習し成長した豪は、自分たちもよりよくできると選手たちを勇気付けるのを助けました」と、鈴木は言います。添田の指導者であるサンギネッティは告白します。「彼はよい競争相手です。なぜなら練習するときでさえ、ミスすることを嫌うからです。たとえば、信じられないほどうまくプレーすることができても最後の一球をミスしたら、彼はいつも練習の99パーセントではなく、その一球を覚えています」
日本人のテニスの成功に寄与した肝心な要因がもうひとつあります。
鈴木は言います。「5年前の日本のナショナルテニスセンターの設立から、日本に帰るアスリートたちはよりよいトレーニング施設を持っています」伊藤が同意して付け加えます。「東京のセンターが大きな手助けになったと思います。私たちが家にいるとき、ともに訓練することができ、日本テニスにとって最良の質の高い練習と競争を一緒にもたらします」
『鎖の強さはその最弱の輪と同じ』という言い回しをするなら、日本人のテニスは確かに明るい未来を持っています。
福田勝志の関心を引かれる事例を考慮する必要さえあります。36歳、ATPランキング1226位で、ITFフューチャーズサーキットにぞくぞくと出場することをやめたとしたら彼は容認され得たでしょう。けれども、いいえ。この前の12月に、福田は厳しいシーズン前キャンプに参加して、2013年のフルスケジュールを計画しました。
「修造のウィンブルドン準々決勝でのパフォーマンスは私に障害にかかわらず自分の夢のために戦う勇気を奮い立たせました」と、福田は言います。「そして今、錦織は我々日本人にできることによって私を鼓舞しています。私はテニスが好きで、同国人の結果を見ることを本当に楽しんでいます。私は、日本のプロテニスプレイヤーであると言えることに多くの誇りを感じます」
依然として野球とサッカーが日本の新聞のスポーツ面を支配する間、新天地を開拓する松岡、道を照らす鈴木、錦織の出現と添田の忍耐力のおかげで、日本のテニスは巨大な崖を登りました。
今もう一度、バーが上がるかは錦織にかかっています。