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テニスが好きです。

【日本語訳】日本テニスの高まり

 

 

ATP公式から、記事を訳してみました。

Robert Davis氏によって書かれた2013年1月12日の記事です。

The Rise Of Japanese Tennis

http://www.atpworldtour.com/News/DEUCE-Tennis/Deuce-2013/Japanese-Tennis.aspx

 誤訳等があったら、教えてください!

 

「日本テニスの高まり」

松岡修造と錦織圭の例を挙げ、デュース〈この記事〉ではテニスがどのように日本で人気のあるスポーツになったかを学びます。

 

日本のテニスのための努力が実を結びました。錦織圭は国の旗手であるかもしれませんが、彼は決して独りよがりではありません。日出づる国の3人のほかのプレーヤー―守屋宏紀、伊藤竜馬添田豪―が、2012年の全米オープンのシングルスで世界ベスト18に入りました。多くの国がこのような数を望むでしょう。

 

「確実に、錦織圭2012年オーストラリアン・オープンでの活躍は、多くの日本人選手にモチベーションと彼らにもそれができるという実感を与えました」と、ユニクロのツアーマネージャーである坂本正秀は言います。

 

「圭は日本人プレーヤーたちがそれをすることができると信じさせました。また、我々がロンドンオリンピックに参加したという事実を除外することはできません。オリンピックは日本の人々にとってとても重要です。オリンピックは選手たちにATPランキングを上げるためのモチベーションをより多く与えました」

 

添田のコーチであるダビデ・サンギネッティは自己信念の要素について坂本に同意します。

 

「今、彼らは彼ら自身を信じきっています」と、サンギネッティは言います。「特に、より経験のあるハードコートの大会においてです」

 

添田は堂々と錦織が例外的に抜きん出たことを認めます。錦織は他の日本人選手たちもATPワールドツアーで競うことができるという確信を選手たちに与えています。

 

「同じくらいのランキングにたくさんの選手がいて、それによりライバル関係が生まれました」と、添田は言います。「私たちは切磋琢磨することが可能でした。そして、私たちには共通の目標として錦織がいました。彼は私たちを引き上げました。私たちが世界を周る際、一緒に練習をしたり、食事に行ったり、リラックスして余暇を過ごすことができたのも、助けになりました。ツアーではそのようなことが必要です」

 

多くのコミュニティと地域のテニス協会がある日本には、プロのクラブテニスと、競合する成人・高校リーグが長く存続し根付いています。日本の製造業者であるダンロップとヨネックスはしっかりと確立したブランドですが、ユニクロユニクロのグローバルアンバサダーとして世界1位のノバク・ジョコビッチと契約することで、そのスポーツがいかに国内で人気であるかを示しました。

 

日本のテニス熱狂者の多くが松岡修造のキャリアに集中しました。高身長で強くルックスがよい彼のドラマチックなゲームスタイルは、ネットへの戦略的アプローチというよりもバンザイ突撃に似ていました。2人の元世界1位選手、ピート・サンプラス1991年カナダにて)と、ステファン・エドバーグ(1992年クイーンズクラブにて)に対する勝利と、元世界2位のゴラン・イワニセビッチに対しての二度の勝利(1992年クイーンズクラブ、1995年モスクワにて)により、松岡は国を鼓舞し、その過程で文化的なアイコンになりました。今日でさえ、松岡は毎年定期的に多くのテレビコマーシャルに出演しています。皮肉なことに、日本でのテニスブームを本当に生み出したのは、1995ウィンブルドン準々決勝におけるサンプラスに対しての彼の敗北でした。

 

敗戦が国家を触発することがあり得るならば、東京で昨年行われた楽天ジャパンオープンチャンピオンシップスでの錦織の歴史的勝利が、今日の日本の子供たちに与えているに違いない影響を想像することさえできます。

 

「松岡修造は日本でテニスのために大体すべてのことをしました」と、坂本は言います。

 

「彼が毎日テレビに出ている主な理由は、人々にテニスを愛してもらいたい、テニスというスポーツを知ってほしいと望んでいるからです。修造は日本でとても有名ですが、彼はいまだに人々に『私は松岡修造です。テニスプレーヤーです』と言います。私は日本のテニスを彼以上に気にかけている人を知りません。修造は私のヒーローであり、すべての日本のテニスプレーヤーにとってのヒーローなのです」

 

松岡の引退後、相対的に行き詰った期間がありました―才能ある鈴木貴男を除いて。ATPワールドツアーのベテランであるクラウディオ・ピストレジに指導を受け、鈴木はしばしば母国のために彼の最も良いテニスを守りました。

 

特に、2006年に戻って、東京での準々決勝で彼が最終的に4-67-57-63)で負ける前に世界1位のロジャー・フェデラーをスリル満点の3つのセットに連れて行ったときのひとつの試合を含めて、偉大さのしるしがありました。

 

「松岡と練習することが可能でした。それはプロのプレーヤーの打球がどんなタイプであるか、プロのテニスプレーヤーになるのに何を要するかについて私が貴重な経験を得ることを許しました」と、鈴木は思い起こします。「今、圭のランキングが上がって、ツアーにいる他の日本人選手は、自分たちも同じように、また、よりよくできると信じることが可能です」

 

松岡は、現在マリン・チリッチのゲームを監督しているボブ・ブレットに指導を受けました。松岡が引退したずっと後に、二人は修造チャレンジという、毎年最も良い若いジュニアたちを集めた能力自己認識キャンプを発展させました。坂本が言うことには、「みんなが修造チャレンジを体験します。修造チャレンジは日本人男子テニスの成功において巨大な役割を担っています。松岡とブレットは首尾一貫して厳しく、若い子供たちに容易な方法はないということを教えます。彼らはテニスの基本と、どんな人間になるかという最も重要なことを教えます」

 

典型的な様式で、ブレットはインタビューを受けることを丁寧に断りました。その代わりに日本人の指導者たち、そしてピストレジ、サンギネッティ、Cesar Castaneda、Braen Aneirosといった日本人選手とツアーを周っている一握りの外国人の指導者たちへの誇りを捧げることを好みました。しかし、日本のテニスにブレットの指紋がついていることは間違いありません。よいテクニック、知的なスケジューリングと、『一生懸命に、しかし賢く働く』態度を含めてです。

 

松岡と鈴木は日本人の子供たちに、彼らがプロテニスでキャリアを築くことができたということを示します。しかしながら、成功するために、日本はいくらかのエリアを取り上げること、すなわち、国際的なサーキットの素晴らしい知られざるもののために国内ツアーを離れることを必要としました。

 

添田豪は日本のテニスの上昇において鍵となる成功要因でした」と坂本は主張します。

 

「豪は2年前にフューチャーズで、2011年はたいていのチャレンジャーズでプレーしました。彼はただひとりの日本人選手に過ぎませんでした。圭は特別な才能がありましたが、選手たちは『豪ができるなら、私にもできる』と考えました。すべての選手たちがそのように考えました」

 

添田は認めます。「私がチャレンジャーズに限らず、ATPワールドツアーでプレーすることで彼らに希望を与えられると信じています。私は多くの若手選手たちが自信を得るために、壁を壊すことができました」

 

「日本の外で訓練する圭は別として、国内で練習し成長した豪は、自分たちもよりよくできると選手たちを勇気付けるのを助けました」と、鈴木は言います。添田の指導者であるサンギネッティは告白します。「彼はよい競争相手です。なぜなら練習するときでさえ、ミスすることを嫌うからです。たとえば、信じられないほどうまくプレーすることができても最後の一球をミスしたら、彼はいつも練習の99パーセントではなく、その一球を覚えています」

 

日本人のテニスの成功に寄与した肝心な要因がもうひとつあります。

 

鈴木は言います。「5年前の日本のナショナルテニスセンターの設立から、日本に帰るアスリートたちはよりよいトレーニング施設を持っています」伊藤が同意して付け加えます。「東京のセンターが大きな手助けになったと思います。私たちが家にいるとき、ともに訓練することができ、日本テニスにとって最良の質の高い練習と競争を一緒にもたらします」

 

『鎖の強さはその最弱の輪と同じ』という言い回しをするなら、日本人のテニスは確かに明るい未来を持っています。

 

福田勝志の関心を引かれる事例を考慮する必要さえあります。36歳、ATPランキング1226位で、ITFフューチャーズサーキットにぞくぞくと出場することをやめたとしたら彼は容認され得たでしょう。けれども、いいえ。この前の12月に、福田は厳しいシーズン前キャンプに参加して、2013年のフルスケジュールを計画しました。

 

「修造のウィンブルドン準々決勝でのパフォーマンスは私に障害にかかわらず自分の夢のために戦う勇気を奮い立たせました」と、福田は言います。「そして今、錦織は我々日本人にできることによって私を鼓舞しています。私はテニスが好きで、同国人の結果を見ることを本当に楽しんでいます。私は、日本のプロテニスプレイヤーであると言えることに多くの誇りを感じます」

 

依然として野球とサッカーが日本の新聞のスポーツ面を支配する間、新天地を開拓する松岡、道を照らす鈴木、錦織の出現と添田の忍耐力のおかげで、日本のテニスは巨大な崖を登りました。

 

今もう一度、バーが上がるかは錦織にかかっています。